第3章 少子化・年金問題はこうやって解決する

3−10 セレクタブル親権でクズ親を交換

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 前項では自由競争・市場原理に任せるのが基本的に正しいと説いた。 もっとも自由競争と言っても、他の業界でもそうであるように、何らかの規制は必要である、食堂に食品衛生法があるように、子供ホームや里親にも、何らかの規制は必要である。 ただその際、陥りがちな誤りがある。 それは体罰である。 体罰だけを神経質に規制しても無意味なばかりか、むしろ有害である。

体罰禁止のタテマエが裏に潜った闇の体罰を蔓延らせる結果になっては本末転倒である。 また体罰以外にも精神的虐待など数えればきりがない。 体罰を禁止するのではなく風通しを良くする、親権にも「自由競争・市場原理」を導入すべきというのが本書の主張である。
体罰そのものよりも、子供を一流大学に入れたいとか、アスリートにしたいとか、親の見栄・エゴ・我欲の方こそが問題、それは何も体罰に限った話ではなく精神的虐待も同じ。

私の体験からすると、

(a)幼児期の体罰も含めた厳しい躾による絶対服従の素質
(b)単に口喧しいだけでなくノイローゼ的傾向を持つ干渉

私の場合はこのabが掛け合わさって、ノイローゼや性的倒錯を引き起こしたわけだが、単に体罰だけを指標に虐待を取り締まって良いのかどうか、たしかにa=0にすれば、私が体験したような問題は発生しないのかも知れないが、そのような極端な措置は、また別の問題を引き起こすのではないか?
aだけでなくb、つまり精神衛生の問題も、バランス良く規制してもらいたいものである。

もちろん命に関わるような暴行は論外だが、体罰だけを取り締まっても意味がない。 むしろ精神的虐待やノイローゼの伝染にこそ注意を払うべきだろう。
子供を萎縮させるのは間違っているが、では単純にのびのび育てれば良いかというと周囲の迷惑もあるので、そうとも言い切れない(私が小学生時代のいじめっ子がそうであった)。
体罰を受けた子供は、暴力的になり、エスエムマニアになってしまうのだろうか? そんな単純なものではない、むしろこれは体罰と言うよりは心の問題である。 私が中学生の時、クラスには、先生にしょっちゅう怒られ(時に体罰を受けていた)悪ガキグループがいたが、彼らは至って「ノーマル」だった。 それに引き替え「良い子」優等生だった私は、彼らとは異なる「アブノーマル」な性的嗜好を持っていた。 それはなぜか、私は母親に押さえつけられ強迫観念を植え付けられていたからである。

繰り返すが、現行の児童相談所が扱えるのは「どう頑張っても半分だけ」肉体的虐待とネグレクトが精一杯である。 精神的虐待やノイローゼ・性的倒錯の対応まで手が回らないし、もし対応しようとすれば莫大な予算が必要となる。 しかも「一部の不届きな親のために」「大多数の善良な親にとっては税負担が増えるだけ」という状況では限界がある。 ならばいっそ、すべての子供を対象に「国家が子供を養う=子供限定ベーシックインカム」を導入すればどうだろう。
 どうせやるなら―――すべての子供を国家が養うようにし、さらに子供が保護者を選択する=親権バウチャー制度にすれば良いのである。 そうすれば親の負担は激減すると同時に、競争原理が働き「しつけ・懲戒」も含めすべては「常識的」範囲に収まる。 「国家が子供を養い子供が保護者を選択する」「子供は預かり物」これは親にも子にも利益をもたらす一挙両得の制度である。

親権が自由競争・市場原理に晒されれば、必然的にそれほどひどい体罰は行えなくなる。 その結果、今後は心の問題など目に見えない部分の虐待防止にも注力される事になる。
「親権にも自由競争」と言うと「そこまでやるのか」と反発する人もいるだろう。 あるいは「子供を虐待する親だけを取り締まれば良いのであって、大多数の善良な親を巻き込む必要はない」と考える人もいるだろう。 だが精神的虐待まで含めた虐待防止はきわめて困難でコストがかかるものである。 また児童虐待問題が「例外的」「社会のお荷物扱い」である限り、それにつけ込んだ差別や不利な扱いもなくならず、すべてにおいて「後まわし」にされ格差が生じるものである。 この問題を解決できるのは「全ての子供を対等に扱う=国家が子供を養う制度」以外にない。
本書は「すべての体罰を否定する」いわゆるサヨクのドグマではなく「行き過ぎを防ぐために」「親権にも自由競争を導入する」「風通しを良くする」という方向の主張である。
虐待を躾だと言い張る親がいるため、民法第820条に「子の利益のために」という文言が追加されたが、はたしてそれで問題は解決しただろうか? 虐待を躾だと言い張るような厚顔無恥な親なら、同様に己の「見栄・エゴ・我欲」のためであっても「子の将来のため」とか強弁するであろう(そして親の期待に応えるために子供は苦しみ歪んで行く)。
親権の本質はムチであり、重要なのは「子供がムチを選択できるか」選択に当たって「公正な自由競争・市場メカニズムが機能しているか」という事である。

よくスポーツのコーチとかが「やる気ないんだったら帰れ!」なんて怒鳴っているが、それは日本国政府にこそ言えるのではないか?
「やる気ないんだったら、子供の権利条約を脱退しろ!」
そもそも行政も警察もやる気がない。 施設内虐待の通報があっても「これから視察に行きます」と施設に電話する。 抜き打ちじゃなきゃ意味ないだろ、バカか役人は! 
警察も実際に動き出すのは死人が出てからである。
 日本は「子供の権利条約」を批准している割には全然やる気がない。 それに比べアメリカはどうか? アメリカは「子供の権利条約」はそもそも批准していないし、なんと学校体罰を認めている州もある(《コラム》制服のない学校)。 だが教師が好き勝手に生徒を殴れるかというと決してそうではなく厳重にコントロールされている(アメリカで日本の学校のような「勝手な体罰」やったら教師は即刻クビ)。
それに加え虐待する親からは容赦なく親権を剥奪する、彼らは彼らのやり方でちゃんとやっている。
「子供の権利条約」が日本に馴染まないのなら、さっさと脱退しアメリカのように自分たちのやり方でやればよい。 ゴチャゴチャした「小難しい権利」建前・キレイゴト・絵に描いた餅はいらないから、

@ 国家が子供を養い子供が保護者を選択する「セレクタブル親権」
A 子供にムチ(親権)を選択させる
B 親権にも自由競争、市場原理

それが最もシンプル、我が国に適したやり方である。

アメリカは、児童虐待があれば即刻「親権剥奪」だが、日本は子供を親元に戻そう戻そうとして、そうこうしているうちに子供が殺される、それは儒教の影響だろうか? そもそも子供は、いずれ親元を離れ自立する(逆にそうでないと困る)ものである。 子供を親元に戻そうという発想自体が根本的に誤っている。
「親子関係の修復」などとも言われるが、それは「子の利益のため」なのだろうか、それとも「親に遠慮しての事」なのだろうか?
厚労省は「愛の鞭ゼロ作戦」というチラシを配っている。 その内容は「暴言や体罰で脳が萎縮する」というのだが(笑)厚労省大丈夫か? 気の短い親に虐待された子供の脳が小さかったとしてもそれは遺伝かもしれない。 「脳が小さくなる」というような「脳幹論まがいのオカルト」で若い親を恫喝するのは不適切「子供を叱れなくなる」躾は日頃からの信頼関係と節度の問題である。
躾が出来なくなり「甘やかされ自己抑制が効かなくなった」子供がそのまま大人になり、次の世代を虐待するパターンも考えられる。 虐待の連鎖といっても1つではない、様々なパターンがある。
そもそも子供に悪影響を与えるのは暴行暴言だけではない、強迫観念を執拗に植え付ける親もいるし、親自身が忍耐力のない駄々っ子、あるいはパチンコ依存ネグレクトの親もいる。 問題の本質は体罰ではなく「どんなクズ親でも返品交換できない」ところにある。 いま本当に必要なのは体罰禁止ではなく「クズ親を切り捨てる=世代間の悪影響をリセットする=国家が子供を養う制度」である。
本書は体罰については中立の立場である。 子供を叱れなくすることで日本社会の崩壊を狙っている左翼もいれば、一方で虐待を止められないクズ親がいるのも事実である。 体罰禁止よりも「親権に自由競争を導入し風通しを良くする」「独占的強権を奪う」「国家が子供を養う」それが解決策である。
「国家が子供を養う」なんて言うと、それこそ右翼などは「共産主義スターリンではないのか」「家族制度を破壊する気か」という人もいるが、別に左に限った話ではなく、古代スパルタもそうである。
スパルタというと戸塚ヨットを連想する人も多いが、これはまがい物である。 本質論からすると、そもそも「クズ親を交換しないスパルタ」なんて論外、馬鹿げている、ありえない(笑)。

国家が子供を養う、セレクタブル(選択可能な)親権により、子供の選択肢は飛躍的に広まる。
これにより子供の意思1つで、実の親を捨て施設に入所、あるいは職人に弟子入りする事も可能になる。
「セレクタブル親権」を導入しクズ親から切り離せば、生産性は向上し日本は非常に強力な国家となる。

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