第3章 少子化・年金問題はこうやって解決する

《コラム》もはや時代遅れの奨学金、最も優れた教育相続税

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私が奨学金制度に批判的なのは、次のような理由からである。
まず次の4パターンがある。

A.勉強の出来る金持ち
B.勉強の出来ない金持ち
C.勉強の出来る貧乏人
D.勉強の出来ない貧乏人

奨学金はCを救済する制度である。 だが、奨学金といっても、決してきれいなカネではない、どこかから搾取してきたカネである。
どこから搾取してきたと思う? それはCとDである。

たとえ金持ちの大家に課税しても、大家はそのコストを家賃に転嫁(上乗せ)するだけのこと、しわ寄せは最終的に、弱い立場の貧乏人に行くわけである。
Cは一時的に奨学金をもらえるが、長い目でみれば、Dと同様、搾取されている。

もちろん、ガクレキが社会を発展させ、豊かにしてくれるならば、それも良いだろうが、今の日本、ガクレキなんて既に飽和している(大学を卒業しても、就職先がない、専門が生かせないなんてザラである) 要するにコストに見合うメリットが得られていない。
そのような状況で、さらに貧乏人を搾取してまで、高学歴化を推進する必要はあるのか?

Cを救済するよりも、Bを排除する方が先決ではないのか?
2−14 大奥の原理でも少し触れたが「貧乏人を大学に行かせる方法を考える」のではなく「金持ちを大学に行かせない方法」を考えた方が正解である。
教育相続税(および学歴税)を導入すれば、金持ちは頭を冷やす事になる。

本コラムでは「貧乏人を搾取してまで高学歴化を推進する必要はあるのか」と批判している。 これに対し「では、貧乏人を搾取するのではなく『金持ち税(富裕税)』を導入して、それを奨学金の財源にすれば良い」と言う人もいるだろうが、結論を言うとそれはダメである。 それをやると、金持ちは「一枚岩」となって対抗し、結果として貧乏人に跳ね返って来るだけである、つまり前述の大家のように、貧乏人をますます厳しく搾取する。
「金持ち税(富裕税)」というと聞こえは良いが、結局それは家賃や商品の価格に転嫁(上乗せ)され、最終的に(弱い立場の)貧乏人に跳ね返って来るものである。 これはいわば金持ちが構築した「搾取集金システム」の上に、さらに非効率な「役人」「学者=サムライ商法」が乗っかって来る事を意味し、貧乏人はますます搾取される。 むしろ「金持ち税(富裕税)」イコール「貧乏人税」と認識した方がよろしい。
ちなみに「教育相続税」は、その様な事のない優れた税である。 教育相続税を支払ってまで息子を大学に行かせるかどうかは「金持ちの間でも意見が分かれ」「一枚岩にはならない」結果としてコスト転嫁(上乗せ)は出来ない。 なぜなら、それをやると価格競争に敗れるからである。
「もっと金持ちから税金を取り立てればよい」と安易に考える人も多いが、今の時代「累進性か逆進性か」なんて議論はあまり意味がない。 はたして累進税は良い税か? 前述の「金持ち税」はその最たるものだが、貧乏人に跳ね返って来るのなら意味はない。 一方で、逆進税は貧乏人を苦しめる悪い税か? 一概にそうとも言えない。 貧乏人だって国家を支える意識は必要である(むしろ金持ち任せの他力本願な意識こそが悲惨な結果を招く)貧乏人だって経営者の感覚が必要、要求ばかりしていてはダメである。 非効率な社会制度をそのままにしていると、最後に泥を被るのは貧乏人である。
格差・貧困の問題は、税制度よりもむしろ生活の効率に起因する(2−17 賢い下流社会)要するに貧乏人は何か間違った事をしているから貧乏になっている可能性もあり、その問題にメスを入れる事なく、安易に富の再分配に頼ってはいけない。
「累進性か逆進性か」よりも「跳ね返らない」税が「良い税」である。
先ほどのべた「コスト転嫁」の問題については、あとがきにおいて「★教育投資の絶対化・聖域化・合理性の喪失」として問題提起しているので、続きはそちらを参照。

ところで話は変わるが、ゆとり教育は、平等論を唱えるサヨク日教組の仕業と思っている人もいるが、実はそうではない。 保守派側から出て来たものである。
金持ち特権階級にしてみれば、ガクレキとはあくまでも差別化の道具である(身分制度が廃止され相続税をガッポリ取られれば、残るはもうガクレキしかない)そのために、かつてはスパルタ英才教育があったわけだが、詰め込み教育には弊害が多くもう限界、そこで「金持ちの学力を上げる」のではなく「貧乏人の学力を下げる」というのが「新たな差別化手段」として浮上してきた、それがいわゆる「ゆとり教育」である。

ゆとり教育は、曾野綾子氏ら、むしろ日教組に批判的な人たちから出てきた案である。

もちろん、いまさら詰め込み教育なんてまっぴらであるし、曾野氏の言うとおり、猫も杓子も大学を目指す風潮というのも考え物だが、だからといって一律に「貧乏人は大学に行くな」などと身分制度みたいな事になっても困る。
そこですばらしいアイデアがある。教育相続税オークションである。 まず金持ちに税金を支払わせ「一定の枠内」に絞り込む、これこそがすべてを丸く収める優れた制度である。
金持ちも貧乏人も、双方ともまず頭を冷やしてから、大学に行けば良いのである。

奨学金は、返済の要否を問わず、もはや時代遅れである。
元が取れない者が、安易に大学に行くのは考え物である(そのコストを本人が負担しようが、親が負担しようが、社会が負担しようが、誰が負担しようが、いずれにせよ社会に何らかのムリが蓄積される事に変わりはない)では奨学金を受ける条件として「元が取れるかどうか判定するテスト」を導入すればどうだろうか? しかしそれに合格するためにまた受験勉強が必要になり、塾や家庭教師と言う話になれば、それでまた教育コストが増大する。
結局、金持ちしか大学に行けなくなり、何のための奨学金か分からなくなる。

あるいは、塾や家庭教師が必要になり、教育コストが増大するのは、学校(日教組)がちゃんと教育していないからだという批判もあろうが、そのような批判は的外れである。
そもそも学校教育制度(特に公教育)の目的は、一定の割合で落ちこぼれを作り出し落として行く事にある。 もしも公教育が、カネを払って行く私塾、例えば公文のように「みんな百点」なんて理念を掲げたら、それこそ保守派から「平等主義=みんな手をつないでゴール的教育」とみなされ攻撃を受ける事になる。
教育コスト増大―――この問題を解決するには、最終的に「頭を冷やす制度」が必要である。

教育改革、入試改革は幾度も行われて来たが、たとえどのような「選抜手段」を取ろうが、その対策に追われ、翻弄され、やたらカネがかかる事に変わりはない。 最終的に「頭を冷やす制度」これ以外になさそうだ。

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