第2章 学歴税(マトリクス累進)を導入せよ!

2−2 差別論

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 私は「学歴は差別である」と結論づける。
 まずは、差別の定義について私の説を披露しよう。
差別とは、

@ 特権階級が諸行無常の教えに逆らい(誰が)
A その身分を未来永劫のものにするために(目的)
B 思い付いたり目を付けたりした不自然な制度(手段) といえる。 具体的には、
 ・身分制度を思い付いたり
 ・知能や皮膚の色に目を付けたり
C そして、そのようなものに異常に拘り(結果)
 ・人というものが見えなくなって行く
 ・様々な悲劇を引き起こす
 ・公正な競争が阻害され社会の停滞を招く

それが差別である。

「人というものが見えなくなる」とはどういう事か? それは、門地・家柄といった身分だけでなく、体の特徴や能力といった、人間の一部にすぎないものが必要以上に誇張され、その人の全体である人間性よりも大きく扱われる事を意味する。 そうした観点に立てば、学歴も立派な差別となる。
そして、学歴こそが「最後に残った最も巧妙で悪質な差別」なのだ。

 では、なぜ学歴という差別は最後まで生き残ったのか? それは人間の「能力」に目を付けたからである。 たしかに能力は重要であるし、努力次第である程度向上もする。 ただ本来、社会の役に立ち人を幸せにしてこその能力だ。 単に点を取るだけの能力に意味はない。 学歴は「能力」という隠れ蓑に身を包んだ点で、最も巧妙で悪質な差別で、子供に負担をかけ虐待する。

「学歴」は努力すれば上に上がれるから差別ではない、と言う人もいる。
理屈のうえではそうだが、
 ・特権階級が己の特権を守るために作った不自然な制度である事に変わりはない。
 ・本当に努力次第で東大に行けるのか?
 ・お受験に金をかけられる金持ちが有利である。
こうした点を考慮したら、「差別ではない」などとは言えないだろう。

さらに学歴は、こんな側面をもつ。
 ・何のための競争なのかわからない(競争のための競争・自己目的化)。
 ・何のメリットがあるのかわからない。
 ・国民に多大な負担をかけている。
 ・教育を歪めている。
 ・なまじ努力次第で上に上がれる要素を含んでいるがために、それがかえって子供を苦しめ人権を抑圧している。

 これらを考慮すれば「学歴」は立派な差別であり、それが周囲に及ぼす影響は深刻と言えるだろう。
こうした根強い学歴差別を解消するためには「これまでにない発想」「新しい思想」が必要である。
つまり、これまでの、いわゆる「左翼的平等論」では対応できない、ということだ。
 むしろ皮肉なことに「人間は平等だ」「生まれつきの頭の良し悪しなどあるはずがない」と左翼的・平等論的な考え方を持っている人ほど、それが逆に仇となって「だから勉強が出来ないのは努力が足りないから」という事になり、努力しなかったのだから「差をつけられて当然」という事になる。
またそれを逆手にとって「あなたには無限の可能性があります」「努力次第です」というタテマエにしておけば、それで誤魔化せるのが学歴という差別なのだ(詳細は特別付録「宿命論とどう向き合うか」参照)。

 だがタテマエなどどうでも良いのだ。 いずれにせよ最終的に社会の役に立ち、人を幸せに出来るかどうかである。 それが出来ず、見栄メンツにこだわり、丸暗記、点取り競争に終始しているとしたら―――やっぱり差別である。
学歴というのは、なまじ「科学的」なだけに、もっともタチの悪い、嫌な差別である。

 いまいちピンと来ない人のために、もう少し具体的に説明しよう。
某小説家が断筆宣言した、例の話題である。 そもそも「テンカンは遺伝する」と言えば差別だろうか?
もちろんすべてのテンカンが遺伝というわけではないが、遺伝というものを完全には否定できない。
糖尿や喘息が身内にいれば、それだけ病気のリスクが高まるように、リスクが高まるのは当然である。
テンカンだけ特別に遺伝しないなんて事はあり得ない。 ただ遺伝を意識しすぎるのは問題だろう。
遺伝を意識しすぎるあまり「頭が悪いのも顔がまずいのも親譲り」となれば絶望しかない。
とはいえ、頭も顔も全く遺伝しないのかというと、それも正しくない。

 過度に遺伝を意識する事は差別につながるが、さりとて頑なに遺伝を否定しても、それで差別がなくなるわけではない。 むしろそれによって盲点となる差別、増長して来る差別が存在する。
それがガクレキである。 つまり「生まれつきの頭の良し悪しなどあるわけがない」だからこそ「勉強出来ないのは努力が足りないからだ」と決めつけ「差別されて当然だ」という風に結論づけるわけである。 もちろん能力開発は重要だが、社会の役に立ち人を幸せにしてこその能力である。
丸暗記競争が蔓延り、それにムダ金をつぎ込む、親は子供を無理して大学へ行かさざるを得なくなる。 それは単に差別問題であるばかりか、教育コストの増大を招き、社会・経済に重大な影響を与える。

私が着目するのは「国家の関与」である。 女性差別や障害者差別も確かに差別だが国家の関与は薄い。 本物の差別とは、体制維持のために(身分制度や格差を維持正当化するために)政治的に作り出されたものであり「部落とガクレキ」がそれに該当する。 そのうち、いまだに現役なのが、ガクレキである。
これまでは、差別というと「何でもかんでも差別差別」と拡大解釈される傾向があり、さらにそれが利権に結びつき、過去の差別をことさら強調する傾向があった。 だが本書の定義は、きわめて限定的である。 ただ特記すべきは、その「限定的定義」の中に「これまで差別とされてこなかったガクレキ」が含まれている点である。

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