第2章 学歴税(マトリクス累進)を導入せよ!

2−21 スパルタ教育は愛国か亡国か?

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前項では「親のエゴは愛国心に反する」「親子の分離が必要」と主張した。
教育においては厳しさも必要ではあるが、それが本当に子供のための厳しさなのかどうか、親の見栄・エゴに結びついていないかどうか、良く吟味する必要がある。

ヨットスクールの戸塚氏は「ほめれば最初は伸びるが、半分以上落ちこぼれになる」「ほめる教育」を批判する。 たしかに「ほめる教育」は、半分どころか十分の一も成功しないだろう。 だがそれでもって「スパルタ教育」が良いと言う事にはならない。
そもそも、すべての子供がエリートになれるのか、学問で食って行けるのか?
博士でさえも失業する時代に、子供をムチで叩いて勉強させるようなやり方は、時代錯誤でナンセンスである。 そもそもスパルタ教育は愛国か? 前項でも述べたが、適性のない者が無理して、社長や国家のエリートになり、会社や国を滅ぼしたのでは、亡国である。

極論すれば「ほめる教育」「百人に1人しかモノにならない」としても、エリートはそれで充分まかなえるから国家としては何も困らない。
むしろ「自分の息子」にこだわりエリートに仕立て上げようと無理するスパルタ教育の方こそ「親のエゴ我欲」でしかなく様々な問題を引き起こす、今やこちらの方こそ有害なのだ。
前項でも述べたが、これは公徳心、愛国心に反する事である。

基本的に子供は「ほめる教育」で育てればよい、それでモノにならなければ諦める事である。 安易にムチは使うべきではない。
体罰だけでなく、やたら競争を煽り叱責する事も同様である。

そもそも「ほめる教育」などと、当たり前の事を取り立てて言わねばならない事自体「やたら競争を煽り叱責する」受験教育が、いまだに蔓延っている証拠である。
受験教育が蔓延る原因は、知的水準が高いからではない。 「受験競争は自由競争である」と未だに信じ込み思考停止してしまう知的水準の低さ「知的怠慢」にある。

「受験競争は自由競争なのか、それとも階級闘争なのか」これは本書が、まえがきで提起しているテーマである。

社員に給料を支払い、経済的に成り立ってこその自由競争、社会の役に立ち、社会を発展させ、人を幸せにしてこその自由競争ではないのか?
経済的に成り立たず、社会の役にも立たず、果てしなく続く無意味な競争など自由競争ではない。 単なるガマン比べであり、社会に負担をかけ、社会を歪め、少子化を招き、年金制度を破綻させ、国家を破滅させる「見栄の張り合い」にすぎない。
そんなものは最初から自由競争ではない。

だがそれは何も(一部のバカな)親だけが悪い、というわけでもなかった。
その背後には、冷戦時代の根深いイデオロギー対立がある。
昔は「受験競争は自由競争である」「自由競争に反対する者は共産主義者だ」というイデオロギーの下に、スパルタ塾なんていうものがあり、子供は学校でも塾でも家庭でもビシバシ殴られていた。 さらには成績を張り出す、なんて事も当たり前のように行われ、それが「自由競争」であると信じられていた。

最近は個人情報保護により「成績を張り出す」なんて事はあまりなくなったようだが、そもそも成績は、単なる個人情報だろうか? 住所等の情報とは異なり、「情報自体が恥ずかしい」こともある。
公開の仕方にもよるので、一概にどうこう言うわけではないが、成績を張り出すことで恥をかき、バツの悪い思いをするとしたら、個人情報の範囲を超えて、名誉棄損ではないか?
あえて恥ずかしい思いをさせる心理的効果として行えば、なおさらだ。
ドンビリまで公開するなんて、いやらしい事をする進学校もあったが、教育者としておかしいとは思わないのだろうか? なぜ隠すべき所を隠さないのか? 町に出没する露出狂、盗撮マニアと同レベルではないのか?
それが自由競争であり正しいと信じているとしたら、寒々しいかぎりだ。

実社会は競争社会だ、営業マンは成績を張り出されているではないか、学校も子供の成績を張り出すべきだ、なんて言う者もいるが、妙な話である。
そもそも自由競争は、儲かるか儲からないかの世界の話であって、人の羞恥心を煽る制度ではない。 営業マンの成果は、壁に貼られた棒グラフよりも、ボーナスにこそ反映すべきなのだ。
逆に言えば、成績を大々的に張り出すような会社は、営業マンが子供時代に受けた受験教育、それによって染みついた習性を利用して、本来払うべきボーナスを節約しているとも言える。これはむしろ自由競争を歪めるものである。

日本には、子供の成績を公表し羞恥心を煽ることが「自由競争だ」と信じている人がたくさん居るが、そもそもそんな「羞恥プレイ」に教育効果はあるのか?
ほとんどないか、あるいは仮にあったとしても弊害の方が大きいか、そのいずれかだろう。
ほとんどの場合は、気分が憂鬱になるだけだ。 学力を向上させたいなら、他にもっと方法があるだろう。

競争させるにしても「競争にかかるコスト」というものを常に意識すべきである。
コスト意識ゼロ、奴隷はいくら使ってもタダ、穴掘りでも、丸暗記でも、ボランティアでも、何でも良いからテキトーに競争させておけ―――そんなものは自由競争ではない。
それこそ国益を損ねていると言えるだろう。
「人件費タダ」「コスト意識ゼロ」それが引き起こす、果てしなく続く無意味な競争=受験競争、それは言ってみれば、何にどう役立つのか分からない、いつ回収できるかの目途も立たないガマン比べに投資するようなものだ。 こんな物を「自由競争」と思い込んでいる政治家もマスコミもどうかしているとしか言いようがない。

スパルタ教育の唯一良いところは若者の自立を早める点である。 ただそれは高学歴化の問題も絡み一筋縄には行かない(自立という観点からすれば学歴税の方が効果的である)
サカキバラのような性的倒錯とスパルタ教育の関係については定かでないが、少なくとも言える事は、親や教師が目先の事(学業やスポーツの成績)に一喜一憂するあまり子供の異変を見落としてしまい対応が後手後手に回る可能性はある(それは他のいじめや自殺事件も同じ「子供の泣き言などいちいち聞いていたのでは受験戦争は出来ない」という風潮が今も残っているのではないか?)
自殺は身勝手な行為という側面はたしかにある。 しかしだからと言って「報道するな」と主張するのは何か都合の悪い事実を隠しているのではないか、特に子供の自殺「自殺の連鎖を招く」と人命重視を装っていてもである。 実際「殴る教育賛成論」を書いた右翼の評論家は「死にたきゃ死んでみな」と題して次のように書いている「左翼は自殺のサインなどとセンチメンタルな処方箋で稼ぎまくっているが、自殺するような奴は意志薄弱なるが故に助けてやってもいずれまた死ぬだろう」人命軽視も甚だしいこれをみれば「自殺の連鎖を招く」というのは隠蔽化の口実にすぎないのは明らか(長い目で見れば隠蔽化はさらに自殺を増やす)
ところで、革マル派はサカキバラ冤罪説を唱えているが、子供は変質しないとでも思っているのだろうか?(セックスを知らない子供の段階で「早期に歪んだ」変態の中のエリート、それが変質者である)サカキバラも毎年繰り返されるイジメ自殺も人命軽視の結果である。
人命軽視はイジメ自殺サカキバラにとどまらない、スポーツ指導における体罰、事故、自殺はもとより、塾の講師が子供を殺した事件もある。 なぜこの塾講師は、幻覚症状が出ているのに病院に行かなかったのか、病気になっても病院に行く事を許されない環境で育ったのか、一方で親はなぜ子供が泣いているのに塾を辞めさせなかったのか、受験戦争に始まる人命軽視が今も日本の教育界を覆っている。

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